その時が、突然にやってきた

健康
スポンサーリンク

ZILを手放した喪失感が半端なく、気持ちが落ち込んでいたところに、その日は突然やってきた。

ZILと別れてから3日後、突然、 母ちゃんが入院することになった。

誤嚥性肺炎に非結核菌抗酸菌症で肺が傷んでいる状態に加え、顔面右半分の麻痺と左瞼周辺に出来た帯状疱疹により食欲が全く無くなり、薬を飲むことも辛い状態が、ここ2日ほど続いていたので、この日は休暇を取り、朝一番に、地元の大きな病院に連れて行く事にした。

誤嚥性肺炎と非結核菌抗酸菌症は既に投薬による治療中で、顔面麻痺については、肺が弱っているため強い薬が使えないということで、薬を使わず、時間を掛けてリハビリする方針で、毎週月曜日に在宅診療中だったので、この日は、帯状疱疹の診察ということで皮膚科を受診しに行ったのだが、現在治療中の病気も含めて、現在の状態を確認することを勧められ、先に内科を受診することになった。

検温で38度を超えていたので、最初にコロナ検査で陰性を確認してから、血液検査に尿検査、CT検査に胸部レントゲンと心電図、一通りの検査を終えて、内科の担当医から診断結果を聞いた。

診断結果は、「老衰」ということだった。

このまま食事で栄養を取れないと、老い先は短いというのだ。

治療方針として、胃瘻という選択肢があるので、本人とよく話し合って決めて下さい、と言われてしまった。

その話を聞かされとき、不意に目頭が熱くなり、それを悟られまいと涙を必死に堪えた。

診察が終わり、点滴を打つということで処置室に移動し、ベッドに本人を横にさせたところで、今度は皮膚科の先生が診察に来てくれた。

左瞼周辺の帯状疱疹の状態を黙って確認すると、手に持っている書類(多分、今抱えている病状と内科の診断結果の内容が記載されているものだと思う)にゆっくり目を通してから、ここで、初めて入院の話が出た。

皮膚科の先生が診断結果をボソボソと話していたと思うが、話の内容は全く頭に入ってこなかった。

この時、入院することが決まり、日常生活のステージが大きく変わろうとしていることを自覚した。

看護師の方に付き添われ、入院病棟に案内してもらうと、入院に関する一通りの説明を受け、必要書類をその場で作成している間に、母ちゃんは病室に運ばれた。

一旦、家内と自宅に戻り、入院支度を整えて、また直ぐに病院に戻った。

すると、今度は、退院後の方針を立てるためにということで、担当ケアマネージャを紹介され、これまでの経緯や家族構成、本人・家族の退院後の希望について話を聞いてもらった。

この時、既に時計の針は夕方の4時を回っていたが、入院に必要なものを購入する必要があったので、病院の帰り道にホームセンターに寄って買い物を済ませ、17時過ぎに家に戻った。


コロナ禍で面会時間が1回15分に制限されている中、家内が1日おきに様子を見に行ってくれていたが、入院から1週間を過ぎたところで、家内の名前は判るのに、私の名前を忘れてしまったというのだ。

母ちゃんは「私は男の子を産んだことはない」と言い張るというのだ。

それを聞いた時は、顔を見せればすぐに思い出すだろうと、軽く考えていた。

1週間を経過した週末に面会してきた。

顔を見せて「誰か判るか」と尋ねると、家内の名前を言って「その旦那」だと答えた。

母ちゃんの息子だと説明をしても、「自分は男の子を産んだことはない」というのだ。

まだらボケということもある。そのうち、思い出すだろうと、その時は考えていた。

入院から1ヶ月を経過して、帯状疱疹の症状は治まり、回復傾向にある様子だったが、認知症は進むばかりで、家内の顔と名前は判るのに、自分の息子の顔と名前を完全に忘れてしまっていた。

母ちゃんが今どんな気持ちで何を感じているのか考えると可哀想で居た堪れない気持ちになったが、ここまで認知症が進むと無理して自宅介護するよりも、こうして病院に入院するか介護施設に任せたほうが本人も幸せかも知れないと考えるようになっていった。

母ちゃんの姿を見て「これが自分の20年後なんだと」考えずにはいられない。

自分の健康寿命は、残り10年程度だろうか。

なんとも複雑な心境だ。


健康
スポンサーリンク
マナ爺をフォローする
まったりと勝手気ままに

コメント